プロフィール

~空を見上げて~ 心の相談室   夏凪 保衣(なつなぎ やすえ)です。

自分を嫌い続ける人生 もう終わりにしませんか?
自分を愛する扉の鍵はすぐ目の前にあります。
見つけられない方はわたくしが“愛鍵”をお渡しします。

私の人生を大きく変えたのは、ある心理カウンセラーの先生との出会いでした。
カウンセラースクールで学びつつ、自分自身もカウンセリングを受ける中
クライアントさんとカウンセラーとの相性が、改善への大きな鍵だと感じました。

見ず知らずの他人に心の内を話すのは、さぞ不安でいっぱいになられるかと思います。

そこで私のことを知っていただき、人生の立て直しにお力添えさせていただきたく
プロフィールを掲載します。


最初に簡単なプロフィール、そして詳しい内容を年代別でストーリーとして載せています。

私自身がどのような人生を歩み、七転八倒しながらも自分の闇に気づき
心理カウンセラーとして生きようと決めるまでのストーリーに
興味を持っていただけたら嬉しく思います。

【簡単プロフィール】

私は機能不全家族で育っていたためか、人生の大半を“なぜ?”というタイトルのついた透明の箱の中にいる様な感覚で生きていました。
なぜ生きているのか、なぜ心の中が空っぽなのか、なぜもう一人の自分がいるような気がしているのか、常に生きづらさを抱えながらも35歳までその答えの見つけ方もわからず過ごしていました。
ある日美容院でふと目に留まった雑誌の1ページに書かれた文字
【自分をカウンセリングしてみませんか?】
読み進めると、めくろうとするページの手が震えるほど、自分が知りたい何かがここにあるのではないかと藁をもすがるような気持ちになりました。
そして、漠然といつか人の支えになるような仕事をしたいと思っていたため、その雑誌を読み終える頃には、その内容が指す“心理カウンセラースクール”へ通う決意をしていました。
そして、そのスクールとの出会いで、自分が、恋愛依存、その根底にアダルトチルドレンを抱えていたことを知り、幼少期からずっと感じていた多くの“なぜ?”から解放されていったのです。

【夏 凪 保 衣 人生 ストーリー】

幼少期:1歳半しか離れていない姉とは顔や雰囲気がそっくりでよく双子に間違えられていたが、家庭内では優等生タイプの姉、やんちゃで破天荒な私とは性格の違いからいつも比べられて育つ。

10代:機能不全家族の中で父親から愛されたいという思いがある潜在意識に気づくこともなく、苦手な人だと思い込んで過ごす。両親の離婚、お米も買えない日々、バイト先からお金を盗ったと疑われ自暴自棄に。

20代:貧乏から逃げたくて愛のない相手との結婚、出産、調停離婚、子供と離れて過ごす日々、再婚。
しかし、実母、息子、夫とのトライアングルの真ん中でどんどん自分を見失っていく。 

30代:誰にも本音を言えない生活の中、自分の中にある正体不明の“闇”に気づき始める。外側は笑顔いっぱいで元気なお母さん!しかし心の中は“なぜ?”に支配される生活に限界を感じるように。
心理カウンセラースクールとの出会いで闇の正体を知ることになる。

40代:カウンセラーの勉強をする中、自分がアダルトチルドレン、ファザーコンプレックス、恋愛依存などを抱えていたことに気づかされ、自分自身の潜在意識にアクセスできるようになり、自分軸で生きられるようになっていった。そのお陰でアメリカでの交通事故、両親の癌、夫のうつ病、を乗り越えることができた。

50代~:心理カウンセラーを副業で始めて感じたのは、クライアントさんの中にスピリチュアルに傾倒する方が多く見受けられカウンセラーをとして幅を広げたくなり学び始める。

宇宙の法則は、脳科学、量子力学、に深く関連付けされていることを知り、潜在意識が現実を引き寄せる体感を何度もすることによって、他人は変えられないが自分自身が変わることで生きることが楽になる!ということを一人でもたくさんの人に体感して欲しくなる。

【幼少期】

両親はいわゆる世間でいう仮面夫婦でした。
家庭の中は、祖母と母の折り合いも良くなく、明治生まれの祖母は息子(父)可愛さから母をいつも悪く言い、母からは姑の愚痴や不満を聞かされて育ちました。母曰く父は、結婚当初から女性の影が絶えない人だったようで、物心ついたころには我が家に父の存在はほぼなく、平日は毎日午前様、家にいるのは日曜日だけという状態でした。時代的にもそんな父親が多かったかもしれないですが、父と出かけたり遊んだ記憶はほぼ無いです。父は特に姉を可愛がっていることがはっきりと伝わってきていたので、家に居た時でも私自身があまり懐かず、父と会話らしい会話をした憶えもありません。

母が父親と母親の両方を担っている感じでしたので、よく手をあげられる暴力的なしつけでした。
祖母が厳格な性格だったので、私たちが食事中に会話しても母のしつけが悪いと母をなじっていました。
姑への不満、父への嫉妬などをぶつける矛先は私たち子どもに向かっていました。
ただ、姉は出来がいい子だったので、両親からは可愛がられていました。
私はちょっとふわふわした子というイメージで、保育園では他の子と同じことをするのが苦手だったようで、記憶ではお昼寝時間が嫌だったことを憶えています。共働きだった為、居残り組でお迎えが遅いのが嫌で勝手に帰ってしまい叱られたことも何度かありました。

1歳半しか離れていない姉と顔や雰囲気がそっくりでよく双子に間違えられたのですが、家庭内では優等生タイプの姉、やんちゃで破天荒な私とは性格の違いからいつも比べられていて、どこかで自分の居場所が無いと幼心に感じていました。次女だったせいなのか、いつも私の言い分は聞いてもらえない環境で、寂しさからいつも反抗的だった気がします。

動物が好きで、家でも私が生まれる前から犬を飼っていましたが、野犬が多い時代で、野犬の仔犬を拾ってきては母親に内緒で育てて仔犬たちと話して寂しさを紛らわしていました。野犬狩り用の罠が仕掛けられた田畑へ行っては、その罠を外して逃がしたりすると、家族に否定されている自分も役に立っているんだと思い、満たされた気持ちになっていました。

【10代】
小・中学校時代の友人はいつも2・3人しかいない子で、大勢が苦手でした。逆に姉は友人が多く学級委員に推薦されるタイプでした。両親からはよく、どうしてあなたはもっと友達を作らないの?と言われていました。友達はたくさんいなきゃ良い子じゃないんだと刷り込みをされていたせいか、かなりの年齢まで友人の数でその人の価値を決めようとしたりする自分がいました。

そして高校2年になる少し前に両親が離婚しました。就職した姉も最初は2つの仕事を抱えて家計を助けていたのですが、母との喧嘩で家を飛び出し家出してしまいました。5人家族だった家は突然、母と私の二人だけの家になりました。毎日寂しくて一人で泣いていたことを憶えています。

調停離婚だったことで、高校生の私も家庭裁判所へ母に連れて行かれました。そこで何か月ぶりかで父の顔を見た時、思わず駆け寄ろうとした私に母から『お父さんを見ないで』と言われ、特に大好きだったわけでもないのに、なぜか涙が出そうになるのを必死で堪えました。女性のもとへ行った父を恨んでいるはずなのに、おそらく16歳の心は寂しさで壊れそうだったのでしょう。よくお泊りをしあっていた親友の家に行った時は、夜中に言い合う声で目が覚め聞こえてきた内容は、ご両親から私とはもうつきあわないでほしいと言われ、泣きながら反論している親友の声でした。その声に自分まで悲しくなり、布団にもぐって泣いていました。学校ではお弁当時間が一番苦痛でした。生活が困窮していたのでお弁当を持って行けず、ダイエット中だとごまかして昼時間をやり過ごしていました。

家計を助けるために、近所のレストランでウエイトレスのアルバイトを始めましたが、ある日、レジのお金がちょうど一万円合わないことでオーナーから呼び出されました。

バイト全員に聞いていることだからと前置きされ、お金が合わないことを話されました。私はもちろんレジ打ちを間違えた自覚などなかった為、心当たりがないと言いましたが、オーナーの雰囲気に違和感を感じ、あとでバイト仲間にレジのことを聞かれたか尋ねてみたところ誰一人聞かれていないと言われ、なぜ私だけ聞かれた?と思い意味が分からずバイト中、オーダーを間違えるほど考えていました。納得できず帰りにオーナーになぜ私だけなのかと尋ねました。返ってきた言葉は『両親が離婚して生活が苦しいんじゃない?』と言われた私はひどく傷つき、その日はたった5分で家に着く距離を悔しさであふれる涙を止められず、遠くまで歩き続けました。

私は何も悪くないのに、理不尽な理由でこんな目に合うんだろうと涙が止まりませんでした。父が家を出た後、アルバイト先で知り合った同い年の恋人もいたのですが、子供だった私は、悩みを相談するという発想はなく、そんな環境である自分を恥ずかしいと感じていて、悩んでいることさえ知られたくないと思っていました。

二人で出かける前に食事は済ませてきたという彼から、待ってるから食べなよ!と言われても、食べるものすら何もない私は、隠れてお茶碗に水だけ入れて、あたかもお茶づけを食べているかのような音を立てて食べ終わったふりをしていました。

私はいつも疎外感や孤独感を感じながらも、友人や恋人、母親の前でもそれを感じ取られないように、末っ子らしく明るく振舞っていました。

そうしていることで、自分の傷に向き合わないでいられる唯一の方法だったのです。向き合ってしまったら、自分自身がガラガラを音を立てて崩れていくような気すらしていました。この頃の私を支えていたのもやはり犬の存在でした。11歳のある日、私は家の自転車置き場の隅にうずくまっていた仔犬を見つけました。
そのころ流行っていたTVドラマから『バン』という名前をつけ、可愛がりました。

とても賢い犬でどこに行くのも一緒でした。
つらいことも嬉しいこともなんでも話せる相棒のような存在に成長しました。
まるで弟ができたように私はバンといると自然に元気になれました。バンは18歳で亡くなったので、私の11歳から29歳までの人生を共に生きてくれました。誰にも話せないようなこともバンには全部話せました。

地域的なことかもしれないですが、その時代は放し飼いも当たり前のような時代でした。

そのため毎日私のアルバイトが終わる時間になると裏口で待っていてくれました。
街灯のない暗い夜道も、バンがいれば怖くなかったです。バイト先であった悲しいことも、嫌なお客さんがいたことも、お客さんに褒められたことなど、辛いことも嬉しいことも毎日話しながら一緒に帰りました。

バンはある意味、傾聴に徹する私の専属カウンセラーだったように思います。
玄関で飼われていたのですが、親のいないときに部屋に上げて一緒に眠ったりしていました。
何も話さないけれど、バンの心の声が聞こえるように私はいつも会話をしていました。
何度も何度もバンに救われ癒され励まされました。アルバイト先でお金を盗ったと疑われた日
『もう死にたい』という想いが脳裏をかすめました。その時、なぜかバンは私から絶対に離れず『ハウス』と何度言っても私の傍から動きませんでした。犬は、人間の血流音、体臭、鼓動音などで危機を五感と本能で察知するそうです。
あの日のバンは、私の身になにか危険が迫っていると感じたんでしょう。
もしバンがあの日素直に“ハウス”し、私から離れていたら、今の私はいなかったと確信しています。
なんとかアルバイトしながら高校を卒業した私は、トヨタのディーラーに就職しました。

【20代】
貧乏生活から抜け出したい、胸の内を全て話せる人が欲しいと思っていた私は、結婚を焦っていました。
同い年の恋人と共に、少しずつでもお互いのお給料から預金をし、20歳になったとき4年間の付き合いの末、婚約する運びとなり、結納、結婚式と話はトントン拍子に進んでいきました。

しかし、結納の後に浮上した宗教問題、同居問題、挙句の果ては、私の両親の離婚問題まで取り沙汰され、私から結婚式の3か月前に破談を言い出しました。またしてもつきまとう両親の離婚問題。
その時の私は、自分の人生に、世の中に、人間に、怒りにも似た憤りを抱いていました。
その後、6か月が過ぎようとしたころ母から『50万借りられない?』と言われました。
何のためのお金かと聞くと、生活苦から友人に借りていたが、旦那さんにバレてすぐに返してほしいと言われたとのことでした。
家出した姉と母は和解していたものの、すでに結婚し娘もいた姉にその件を相談することはできませんでした。

自分から破談にしたものの、愛する人を失った悲しみから完全に自暴自棄になっていた私は、同じ会社に勤める11歳年上の上司に『50万くれるなら結婚してもいい』と言っていました。
今なら32歳という年齢で行き遅れとは言われませんが、当時は“結婚できない男”的な言われ方をされていた上司だったので、二つ返事でOKされてしまい、あっという間に結婚してしまいました。
まさに愛のない結婚。たった50万のために身売りしたようなモノだと自分を蔑んでいました。
心が荒んでいたのです。しかし21歳の娘が、粋がって虚勢を張っていられたのもそこまででした。
新婚旅行で初めての海外旅行!もちろんお金も無ければ、着ていく洋服すらまともなものはありません。
たった2万円を自分のお財布に入れ飛び立ったものの、会社や友人、自分の家族へのお土産選びに忙しい旦那様は、私が見ているだけで何も買っていないことに気づきもしません。
実際は、買わないのではなく買えないことにも気づかず、私は一人みじめさと闘っていました。
欲しいものがないと嘘ぶいて、ひとり泣きながら遠浅の海を沖へ向かって歩いていた時、このまま歩き続けたら死ねるのかなぁ~と考えていました。

今まで我慢していたことや辛かったことがひとり泳ぐ遠浅の海の中、突然、涙がどめどなくあふれ出し、赤子のように声を出し泣き叫んでいました。

ひとしきり泣きじゃくったあと浜に戻った私は、旦那様に、なりふり構わず『お金が無いので友人にだけでもお土産を買ってもらえないですか?』と言っていました。友人にお土産も買わず手ぶらで帰るわけにはいかないという別のプライドからでした。

誰にも頼らず一人で頑張っていると勘違いしていた私が、初めて弱い自分をさらけ出した瞬間でした。
私は幸運にも常に助けようとしてくれる友人や恋人はいました。
しかし自分自身が誰にも心を開こうとしなかったんです。16歳から『大丈夫?』『相談してね』と優しい言葉をかけられるたびに逆に『放っておいてほしい』と思うひねくれ者でした。

ただ弱さをさらけだして気づいたのは…
あっ惨めだから言えないと思っている間ってまだ切羽詰まってないのかも?
惨めさをさらけ出せないでいる間は、まだ何気に心に余裕があったんだと思えたことでした。
死ぬ勇気があるなら何でも言える。
誰かに『助けて』という“勇気”の方が、死ぬ“勇気”よりよっぽど簡単だと気づいた21歳の初夏でした。

しかし、無口で多くを語らない旦那様、心のどこかで離別した恋人を想って暮らす私、楽しい会話が弾むわけもなく、期待もしていなかった結婚生活は毎日が砂を噛むような日々に思えました。
3か月後妊娠するも、幼いころから感じている孤独感と、意味がないと思える結婚生活からくる焦燥感の間を行き来しているような生活でした。

ただ翌年息子が誕生し、無力なわが子を抱きしめ母乳を与えた瞬間、それまでの、何のために生きているのか?と思っていた自分の人生に、とてつもなく大きな意味を感じました。
私の匂いと温もりだけで安心しきっているその姿に、誰かに必要とされることがこんなに生きる意味を与えられるものかと思えました。

この頃から漠然と、誰かに必要とされる、決して代わりのいない仕事がしたいと思うようになりました。

しかし、愛されることや愛することに枯渇していた私が、この愛のない結婚で長続きするはずもありません。
育児方針の違いもありわずか3年で破綻してしまいます。
絶対に離婚も養育権も譲らなかった旦那様とは何か月話し合っても平行線のまま。
終いには口も利かなくなり、言葉覚えが早かった息子が私と旦那様の間を伝書鳩のように伝えまわるような生活になりました。その頃の息子が描く絵は、仮面ライダーブラックだと言いながら真っ黒な絵を描くようになっていました。それを見たときに初めて、このままではいけない!とりあえず私がこの家を出ようと心に決めました。
真っ黒な絵を描き、頻尿にもなっていた為、息子の環境を今すべて変えるのはよくないと考えた私は、おばあちゃん子だったことに助けられ、まず一人で家を出ました。

住むところと仕事を探し息子を引取る環境を整え、家庭裁判所へ行き調停の申し立てをし、その後は内緒で息子の様子を見に行ったりして過ごしましたが、そのころ書いていた日記にはネガティブな言葉が並んでいます。

何度も繰り返される調停、お互い養育権欲しさに普段なら言わないような罵りあいの数々。
これを自分が16歳の時に、私の目の前で両親もやっていた記憶が鮮明によみがえり心をえぐられる日々。
なによりもそんな醜い光景を我が子に見せなくてもいい時期だったことだけが救いでした。

1年もの間争った結果、養育権は母親である私がとることができましたが、私が育てることは認めず私の姉が監護権という名目で育てることが条件の離婚成立でした。
姉の協力で半年間、姉の家で育ててもらうことになった息子。
幼心に、私とは教育方針が違う姉の家で、なぜ母親の私と暮らせないのか不思議だったと思います。

そして今の主人と出会い、再婚の話が出た時、最初に私が出した条件が『この世に私を“お母さん”と呼べる子を息子以外に存在させたくないので、実子を諦めるか私との結婚を諦めてほしい』という内容でした。
主人は初婚だったので、私を選ぶなら離婚しない限りこの先一生、自分の子を見られないということです。
こんな残酷なことを言い放てること自体、無意識に私への無償の愛を試していたんだと思います。
まさに“父親のような愛”を潜在意識は求め続けていた証のような言葉です。

今思えば当時の私は、自分自身が両親の都合で離婚し傷ついたことをずっと引きずっていて、そこに罪の意識を感じていない両親への怒りだっとも思えます。

自分は子供に同じ想いをさせない!私はこの事実を一生背負って生きていく!と、まさに“こうあるべき”という考えで自分自身を正当化し満足していました。
今になってこういう考えこそが、自身を苦しめ、がんじがらめにしていっていたんだと改めて感じます。
そして二度目となるこの結婚は絶対に失敗してはならないという強い信念から家族となったのですが、ここから再び“こうあるべき”に捕らわれの身となった私は、自分の母親と息子と主人のトライアングルの中で自分自身を見失っていきました。母も息子も主人も、私にだけ本音を言ってきます。誰一人間違ってもいない、けれど誰か一人の要求だけを聞くこともできない、すべての家族に感謝の気持ちがある中で、自分さえ我慢していればというループにハマっていき、生きづらさからまたもやなぜ自分は何のために生きるのか?という思考が頭をかすめるようになりました。

このタイミングで私の人生の専属カウンセラーであった愛犬“バン”が18年の生涯を終え、空へと旅立ちました。初恋も失恋も、親の離婚も挫折も、私の結婚も子育ても離婚も再婚もすべて共に歩み、支え、励まし、癒し続けてくれた、かけがえのない相棒でした。振り返っても親の死よりもつらかった相棒との別れでした。

【30代】
5歳から一緒に生活を始めた息子と夫、成長と共に夫にライバル心の様な感情を抱いたのか、『僕がパパと別れてほしいと言ったら離婚してくれる?』『僕とパパとどっちが大事?』などの質問をぶつけてくるようになりました。家族一人一人を守ろうすればするほど、自分をわかってくれる人はいないと、まるで悲劇のヒロインになったかのように自分を憐れんでいました。

傾聴専門だった相棒との別れで、幼いころから自分の中にどっしりと居座っている正体不明の“闇”に気づき始めました。相棒の喪失感なのかとも考えたりしましたが、何か違う!『助けて』という魂の叫びにも似た声が私自身の中からあふれるように感じました。

仕事も事務職から婦人下着の卸販売会社へと転職し、ネット通販部門の責任者を任され、たった7人ほどの部署でしたがやりがいも感じ収入も満足いくくらい貰えていましたが、ぽっかりと空いた心の穴は埋められないまま表面的には元気で明るい人を装い仕事に没頭するような生活を送っていました。

現実と虚像のはざま、笑顔で暮らそうにも時折襲ってくる孤独感や虚無感は自分が一番わかっていました。

そして息子を初めてこの手に抱いたとき漠然と感じた、誰かに必要とされる決して代わりのいない仕事がしたい、自分の闇がなんなのかどうしても知りたいという思いから、心理カウンセラーのスクールに通うことを決意しました。

セルフカウンセリングという手法を教わり、何かあるたびに自分自身を自分でカウンセリングするということを続けていきました。それで知ったのは16歳から癒されぬまま放置された“愛されたい心”でした。

まさに私は、れっきとした恋愛依存症であり根底にはアダルトチルドレンが隠れていたのです。

私が16歳のとき女性の元へ行った父、寂しさと恋しさから家を出るときにもらった電話番号へ電話するも、受話器から返ってきたのは『私の旦那さんなら居ますが、あなたのお父さんは居ません』という女性の吐き捨てるような言葉でした。
浮気相手と再婚した父でしたが、その女性の嫉妬にがんじがらめになっていた父には16歳の娘が求める小さな愛情にすら応えることもできず、勇気を出してかけた電話に父が出ることはありませんでした。

それまではすっかり忘れていたような些細なことをセルフカウンセリングによって30代半ばになっても癒されぬままだったこともわかり、恋愛になるといつも男性に求めるのは無償の愛だったことも理解できました。
恋愛相手にいつも“父親”を求めていたんだと腑に落ちました。

【40代】
18歳になった息子が、大学は夢だったアメリカオレゴン州へ行きたいと言い出し、送り出したまでは順調でしたが、1年後オレゴンへ会いに行った私は息子の運転で自動車事故に遭いました。

右足首を切断するかどうか外科医が迷うほどの大事故でした。顔にもひどい傷を負い、肋骨は3本骨折、のちにあと数センチずれていたら頸動脈が切れ即死だったと聞かされたときは震えました。

頭からフロントガラスへ突っ込んでいますので顔面の傷の深さは心の傷の深さに匹敵するほどショックでした。
意識が戻ったあと、痛みがひどいので息子に何度も鏡を見せてほしいと頼んでも決して見せてくれません。
一体、どんな顔になってしまったのだろう…不安が押し寄せてきます。

しかし、私自身は全く記憶にないのですが、運ばれた病院で動揺する息子に『20歳になるんでしょ、しっかりしなさい!まず落ち着いて日本に電話をしなさい』と叱ったそうです。
後に息子から、死にそうな母親からお説教されたと言われ、カウンセリングで自分自身を内観できるようになっていたことが、幾度となく襲われる不安にも気づかぬうちに対応できるようになっている…そんな自分が少し誇らしかったです。

帰国する頃には、日本まで同行してくれた送迎看護師さんにどん底と思えるシチュエーションでも笑顔で話せるように逞しく変わっている私がしました。

帰国後、車いす生活が強いられ仕事復帰も難しく、ストレスも半端なく襲ってきていました。

そして、父の白血病、母の膀胱がん、夫のうつ病など、次から次へと私の精神力を試すかのような試練の連続でした。
特に、再婚20年後に奥さんを亡くし一人暮らしだった父の介護は、複雑な想いの連続でした。
寂しがり屋の父は、入院生活の間、毎日来てほしいと言い、叶えてあげたい気持ちと、何を言ってるんだ!という怒りの気持ち、愛情と憎悪が交互に押し寄せる感覚で、自分の気持ちに折り合いをつけることが日々の課題だったように思います。しかし、全てを許そうと決めた時、誰よりも自分自身が幸せになれました。

介護も楽しくできるようになった矢先、父は旅立ってしまいましたが、最期に人生で一番長く父と過ごした時間は尊いものとなりました。父の後を追うように母の膀胱がん、夫はうつ病と立て続けに荒波が襲ってくることになりましたが、カウンセリングのお陰で、そのころの私は逃げずに自分の人生に向き合えるようになっていました。

【50代~現在】
糖尿病を抱えた母の膀胱がんは在宅治療だった為、3度の食事の世話から検温、インスリン注射までなんちゃんて看護師となって介護しました。同時に夫が職場の転属からうつ病を発症し、早朝の職場で手首を切るという事態を起こし、一人運転中にストレスで号泣するときもありましたが、セルフカウンセリングを繰り返しながら、心と現実のバランスをうまくとり、姉の協力や友人の励ましの中で自分を見失うことなく乗り越えることができました。

その後、長い海外生活から帰国した息子も30歳を目前に、身体表現性障害なる病を発症し、19歳から海外で暮らしていましたが、12年ぶりに静養を理由に仕事も辞め、実家へ帰ってきました。正直、カウンセラースクールでも聞いたことがなかった病名でした。調べようにも症例がほとんどなく戸惑ってしまいましたが、大きな愛で支えることしかできないと割り切って、申し訳なさそうにする息子に『親の愛は源泉かけ流し』と笑顔で言える自分がいました。

そして社会復帰をした私は、パート先で一人の女性に出会いました。いつも悲し気な目をした一見大人しそうに見える彼女は、なぜかパート全員から嫌われていました。物言いもきつくぶっきらぼうで、話す声は小さくて聞こえません。注意したり叱るときは別人のように怒ります。私はこの女性には発達障害があることを見抜きます。ある日話す機会があり心療内科に興味あるかと問うと、行きたいけど一人では行けないと言いました。一緒に行ってあげるよと言ったことがきっかけでいろいろと話すようになりました。テストの結果彼女は自閉スペクトラム症であることがわかりました。そして、この女性こそが、今我が家にとって大切な大切なお嫁さんです。ある日帰省していた息子と出会い、半年後には結婚と“縁”とはこういうことかと思うほどトントン拍子に話は進みました。しかし、他人との距離感がわからず、気持ちへの寄り添い方がわからない彼女と、神経質な息子では摩擦が起きて当たり前です。幾度となく傷つけあい、枯れるほどの涙を流し、お互いを理解しあう“戦い”の連続です。まさに戦いという言葉がぴったりの夫婦生活です。しかしそんな中でも必死に向き合い相手を理解するために話し合いを繰り返し、4年経った今でも二人の努力に終わりはありません。カウンセラーである私ができることはただ見守り寄り添い、決して見放さないということだけです。彼女は障害をしっかり受け止め、少しでも生活しやすいように工夫し、最初に出会ったときの雰囲気はもうどこにもありません。自分に自信を持ち堂々と前を向いて生きています。健常者である私が学ぶところばかりです。ただ、もし私がカウンセラーの勉強をしていなかったら、寄り添うことも難しく、もっと言えば彼女を見つけられなかったかもしれません。ほかのパートさん同様、嫌いになって終わっていたと思います。今、こうしてオンラインカウンセラーを仕事にしたいと思ったのも、お嫁さんの存在が大きいです。一人でも悩み苦しむ人を救いたいという思いからです。

お嫁さんについてのブログ記事はこちらです

長そうであっという間の人生、これでもまだまだ書ききれない傷も多く割愛いたしましたが、こうして書き出すと、なんて波乱万丈なんだと思ったりします。


でも今の自分が大好きで、もし生まれ変わっても、もう一度この人生を歩きたいと言い切れる自分がいます。

空を見上げ、流れる雲に『どこへ行くの?』と語りかける自分、朝陽や夕陽にありがとうと言える自分が大好きです。

一人でも多くのかたが、同じように美しい空、曇った空、大雨の空、全ての空に感謝できる人生になってほしいと心から願っています。

~空を見上げて~ 心の相談室
スピリチュアルカウンセラー
夏凪保衣(なつなぎやすえ)

★補足★

【スピリチュアルについて】

心理カウンセラーを副業で始め、クライアントさんの中にスピリチュアルに傾倒する方が多く見受けられたことに気づきました。元々、興味もありカウンセラーとして幅を広げたかったことから学び始め、あるヒーラーさんから、『あなたは私と同じ能力があります、人々を救う使命もあります』と言われました。
私は幼いころから直観が鋭かったり、心に自分の考えではない声が入ってきたり、大人になるにつれ、嘘を見抜いたり、写真や映像からその人物の本質が感じ取れたり、それが自分でも何かわからず人にも言えず過ごしてきましたが、答が見つかったと思えました。

正直、私はスピリチュアルと聞くと“怪しい”といつも穿った目でみていましたが、学びを深めるにつれ、宇宙の法則は、脳科学、量子力学、に深く関連付けされていることも知りました。
潜在意識が現実を引き寄せるということを自分が何度も体感したことで、他人は変えられないけれど、自分自身が変わることで生きることが楽になる!ということを一人でも多くの人に体感して欲しくなりました。
せっかく授かった能力も今後はフルに活用して一人でも多くの方に幸せになってもらいたいのです。
是非、あなたも潜在意識にアプローチする方法を学び体感してみてください。
その扉を開ける愛鍵は私がお渡しします。